映画ドラゴンクエスト ユア・ストーリーは……(記事中盤にネタバレ有り)
ドラクエ5を3Dアニメ映画化した「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」
今日はこの感想をお伝えしていくのだが、その前に、少し例え話をしよう。
公式サイト:https://dq-movie.com/
貴方は老舗の小洒落たケーキ屋を訪れた。
そして、昔ながらの見た目をした新作ケーキを注文したとする。
そのケーキは懐かしの味で、途中までは美味しく食べていたのだが、もうちょっとで食べ終わるという時に異変が。
突然、激しい辛さが貴方の舌と喉を襲った。
どういうことかと驚いていると、パティシエが「ウチの店は面白いケーキを出すでしょう?」なんて自慢気にニヤついてきた。
さてこの時、貴方はどんな反応をするかな?
1人のゲーム好きとして、果てしない屈辱を受けた
まずハッキリさせておきたい事がある。
実は、私はドラクエ5は大まかにキャラやストーリーラインを知っている程度で、未プレイだ。
4や6はDS版で遊んだ。が、5は好みじゃない女性の中から花嫁を選ぶ、という要素が好きじゃなかった。
鳥山明さんの絵でギャルゲー は無理だと感じていたのだ。今ならいける気がするけど。
ただ、こんなにゲーマーの気持ちを理解していないゲーム原作アニメは初めてだと感じた。
1人のゲーム・アニメ好きとして、気持ちを踏みにじられた。そんな想いだ。
上司や親や先生から、理不尽な怒られ方をしたことはないか?
例えば、2、3年前、あるいはもっと前の失敗を持ち出して「だからお前はダメなんだ」と説教されて楽しい気分になる人がいるか?
この映画がもたらしたのは、そういった類の「屈辱」だ。
ドラクエという「正統派」で、とんでもない変化球が投げられたことへの驚き
子供時代がダイジェスト風だったのは大した問題じゃない。
実際にプレイした人からしたら、問題の一つだったには違いないだろうが、それ以上の大きな問題の前では、些細なことだった。
ドラゴンクエストというシリーズは、王道で正統派で、豪速球しか投げないようなピッチャーだった。決して変化球など投げない、はずであった。
キャラデザは鳥山明で、音楽はすぎやまこういち。
お姫様がいて、魔王がいて。そんな黄金律こそがドラクエだ、という理解があった。
だからこそ、こんな奇妙な作品が作られてしまったことに驚きを隠せない。
※この先ネタバレ注意
【注意!】ドラクエユアストーリーの重大なネタバレ
映画の“あの瞬間”までは、我々は確かに「ゲームの世界」を楽しんでいた。ゲームの世界に生きるリュカと共に、冒険をしていた。(早足だったとはいえ)
その時、我々はこれがゲームかゲームでないか、などということは忘れていたはずだ。
そして"あのラストの瞬間"は訪れた。
突然現れた「ウイルス」とかいう敵により、「ゲームの世界」の住人だったはずの主人公リュカが「ゲームの世界の外の人間」だったことを思い出すのである。
ドラクエ5の世界の主人公だと思っていた人は、実はただのプレイヤーだった。ラスボスはミルドラースではなく、いわば「ゲームを否定する人間」だった。
あの瞬間、我々は迷子になった。
この映画における心の拠り所を失い、どこにしがみつけば良いのか分からなくなった。
これに至るまで、なんの伏線もなかったのだから。
そして「ゲームは現実じゃない、大人になれ」という数十年来聞き飽きたような、時代遅れの説教が始まり、主人公は「ゲームも現実だ」とかなんとか返すのだが――。
このセリフ、やりとりが本当に軽薄で、陳腐で、かえってゲームの価値を貶めたいのではないか、とすら感じたのだ。
観客が信じていた「現実」は、あの瞬間打ち砕かれた
あのシーンまでの観客の認識
- 主人公はこの世界の住人で十数年の苦難を経験している。
- パパスやビアンカやアルスと、本物の家族関係を築いてきた。(少なくとも映画の中では)
あのシーン以後の観客の認識
- 主人公は実はVRゲームを遊ぶ現実世界の青年、今までの苦難は虚構
- パパスやビアンカやアルスとの家族関係も、虚構のもの
観客はあのシーンに至るまで約90分、「この主人公リュカは、『本物』(=映画の中における『現実』)の苦難や冒険を乗り越え、家族との絆を作り上げてきた」と、信じていた。
だがあのシーン以降、苦難も冒険も、家族との絆もゲームの世界のものに過ぎないと言われてしまった。
あのシーンで観客が信じていた「本物」(=「現実」)は、否定されてしまったのだ。つまりは「虚構」だった。
そのため、あの瞬間以降、主人公とビアンカ達との間に、どうしようもない溝を感じてしまったのだ。
おそらく我々がゲームを始めて以来感じている、ゲームの「中の人」(キャラクター)と「外の人」(プレイヤー)という溝。
この映画は、少しでもその溝を埋めてくれる"気分"を味わえるものだと途中までは信じていたが、あのシーンで全てがひっくり返され、その溝が強調された。
それなのに主人公はあのシーンで「ゲームの世界だって『現実』だ」と力説する。誰が共感する?
たった今、この映画で観客が信じ込んでいた「現実」が否定されたじゃないか。
故にこの言葉はむしろ、虚しく響くだけだった。
途端に、ビアンカ達が空虚な存在に思えてしまい、EDではどうしようもない虚しさに襲われた。
「やっぱりゲームなんて虚しいだけなのかも……」
ラストシーンで観客にそう思わせたいのなら、大正解の映画だった。
これほどまでに名のあるタイトルで、ラストの空虚さを演出した手腕は称賛に値する。
「そんなことお前に言われなくても分かってらい」と言いたい
「ゲームは無駄じゃない!ゲームも現実!大事な思い出!」
どうやら、この映画を作った山崎貴・総監督らは、そう伝えたかったらしい。
なら私はこう伝えたい。
「そんな当たり前のことは、貴方達に言われなくても皆分かってますよ」と。
ビデオゲームを長年愛してきたものならば「魂の一本」と呼べるものがあるだろうし、それが自分の生活や人生、人格形成に大きな影響を与えたというのも理解できるはずだろう。
だが、ユアストの制作者達、特に総監督はビデオゲームが大して好きじゃないらしく、この当たり前の事が理解できなかった。
だから、ああいう大げさな形で、各自の思い出の詰まった作品の映画を台無しにすることでしか、メッセージを伝えることができなかった。
とても傲慢な態度であり、イラ立ちを覚えた。
ユアスト監督のビデオゲームに対する理解は、20年は遅れている
現代のゲーム好きにとっては、ゲームが無駄かどうか、とか、現実かそうじゃないか、なんて議論はどうでもよいのだ。
だって現代のゲーマーにとっては、日常の一部だから。そんな話をすることが、無粋なのだ。
ユアストを見た後なら、「ソードアート・オンライン」や「レディー・プレイヤー1」が、いかに現代の日常的にゲームをする人に寄り添っていたか、理解できるだろう。
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ユアストの総監督のビデオゲームへの理解は、SAOやレディプレから20年は遅れたところで止まっている。
「ゲームが有益か、現実じゃないか」なんてのは90年代までのテーマだ。
90年代以降一切ゲームを遊んだことがない人向けの映画だった。もしかしたら、そういう人には受けると思ったのかもしれんが、前の項で挙げた理由で、共感は難しいだろう。
花を愛でること、絵画を描くこと、音楽を聴くこと、本を読むことは有益か?現実から目を背けてるか?そんな議論をイチイチする奴がいるか?
「ドラクエ5というメジャーゲーム作品の映像化で、あろうことか、その作中で議論が行われたこと」
これが無粋の極みであった。
山崎総監督たちには、この作品を作ったなら、花や音楽や絵や本を嗜む人たちに対しても、上から目線で議論を吹っかけてみることをおススメする。
この映画は、あの瞬間までは「ゲームの映画化」だった。ゲームを遊んでいる気持ちに近い気分で、映画をそれなりに楽しんでいた。
ゲームをしている人間が望むことは何か?
ドラクエのような、ソロプレイのゲームを遊ぶ人間が最も望んでいることは何か?
それは「そっとしておいて欲しい」ことだ。
確かに、制作陣に寄り添うなら、場合によってはゲームが無駄だとかそうじゃないとか、そんな議論が必要な場面もあるだろう。くだらないトーク番組とかね。
だがゲームプレイの真っ最中の人に、そんな議論をふっかけたら?
「黙れ!ゲームの邪魔をするな」と言って感情的になり、それで終わりだ。あるいは、ケンカになるかも。
ユアストをエンディングまで見た人は、まさにプレイ中に邪魔された人である。
それがいかにゲームファンをイラつかせるか、制作陣はまるで理解していなかった。
制作陣は「理解してますよ」という気分になってあのようなシーンを作ったのだろうが、その上から目線の傲慢さも透けて見えて、大変気分が悪かった。
【まとめ】ドラクエ・ユアスト「あのシーン」の何が問題だったか
- ドラクエらしい王道が来ると思っていたのに、裏切られた
- 主人公とそれ以外のキャラの関係が、とても空虚なものに思えてしまった。
- 「ゲームが現実かどうか」なんてテーマが時代遅れ
- しかも「ゲームが現実じゃない」ことに説得力を持たせている
- ゲーム好きな人の気持ちを、制作陣はまるで理解していなかった
【総括】我々はこのユアストに触れて、どうすべきか。
さて、このどうしようもなく時代遅れな制作陣のエゴを見せられたかのようなユアストに対して、我々はどうすればいいのだろうか。
善良な皆さんは、スタジオを襲撃しようなんてことは間違っても考えもしないだろうが、深く傷ついたことだろう。
このドラクエ5を遊んではいない私でさえ、あまりの酷さに眉をひそめたのだから、リアルタイム世代は、侮辱されたという気持ちでいっぱいのはずだ。
私はこの映画で問題だったのは、「あのラスト」だけだったと考えている。
結婚のシーンなどはフラグの積み重ねが不十分過ぎたが、まだ許せるものだった。
それに3DCGのクオリティは素晴らしく、戦闘シーンは迫力があった。
今までどうしても美人だとは思えなかったビアンカも、この映画ではかわいく思えた。
ヘンリー王子と主人公の関係も、エモかった。
と、思い出してみると、「あのシーン」さえ無かったら、割といい映画だったような気がしてならない。
「ピーク・エンドの法則」である。
最後が悪いと、全部がダメに思えてしまう。
私の結論は「なんであんなひどいことをしたの?」だ。
そして、そう、私としては、原作を履修してから、改めて皆さんに報告したい。
既にプレイされている方も、原典の良さを思い出しつつ「あのエゴにまみれたシーン」以外の、熱心なクリエイター集団が作った部分を思い出してほしい。
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